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2011年2月25日 (金)

「遊撃隊始末」読了

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遊撃という言葉は、現代では野球の遊撃手というポジション名に残ってるぐらいしか

知らない。戦闘に際し臨機応変に出没して敵を撃つという意味だが、幕末には遊撃という

名前を冠した隊はいくつかあったらしい。

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「真心のあるかなきかは屠り出す腹の血潮の色にこそあれ」

この句を詠んだのは昭和十六年に94歳でこの世を去った‘最後の大名’ 林 忠崇である。

自分の本心は切腹した時の血の色を見ればわかるという意味だろうと思う。

一万石の大名でありながら自ら脱藩し家来を引き連れ官軍と死闘を演じた人物だ。

下級武士が脱藩するのとはわけが違う。

この本の3人の主人公のうちの一人。

最前線で白刃を振りかざし、銃を撃つなどした大名はこの人物だけだろうと思う。

徳川将軍家を補佐し盾となるべき紀・尾・彦(紀州、尾張、彦根)が官軍に寝返り

徳川を倒す側に加わったのに対し、あくまで徳川に忠誠を誓う姿はこの藩(請西藩)の

成り立ちに関係している。

幕末から明治初期の頃の藩主などは、御一新でブツブツ文句を言いながらも責任も取らず

とりあえずおとなしくしていて華族に列せられるのをじっと待つというのが、ピナ男の

頭の中の固定したイメージであった。

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林 忠崇は違った。

若かったせいもあろうが、あくまで徳川家に忠誠を誓い、戦い、傷つき、負けた。

しかし彼に従った家来衆もすごいなぁ。負けると半分わかっていたのに。

実際、「やってられぬ」と兵が脱走したり、止めるよう進言した幹部もいた。

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やはり主人公のひとり、人見 勝太郎は下級御家人出身で、もともと隊長として

遊撃隊を率い、大名である林 忠崇をさそった人物。

頭脳明晰、行動力抜群。

箱根の戦いから五稜郭まで知恵と度胸で奮戦するが最後は負ける。

榎本 武楊や土方 歳三とともに最後まで戦った。

あの激戦をよく生き残ったものだ。強運でもある。

しかし負けて降伏した後のこの人の行動力はすごい。

新政府に認められ、めきめきと頭角を現し静岡県令をつとめ会社や学校を経営した。

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最後は伊庭 八郎。 道場主の息子。

剣豪でならし白刃をふりかざし敵兵を斬りまくる。

連発銃が普及してきた時代に敵にもっとも恐れられた人物。

傷つきボロボロになり、最後は榎本にすすめられたモルヒネを飲み安楽死を選ぶ。

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三人のうち大けがで療養中の伊庭を除き、林と人見は磐城の戊辰戦争を戦った。

この本の中では第六章「平潟の湾、勿来の関」に出てくる親しみを感じる部分。

先に小名浜に上陸して準備を整えていた遊撃隊は、

現在の北茨城市平潟に上陸し武器、兵員ともに優勢な官軍を迎撃するべく

陣地を構築し激戦を展開したのが新田峠である。

浜街道の重要拠点であるこの地で同盟軍の一翼を担い遊撃隊も奮戦するが

側面をつかれ敗走してしまう。

林 忠崇と人見は弾丸が飛び交う山中、敵に包囲され命を落とす寸前だったが

奇跡的に生還した。

それにしても磐城諸藩、仙台兵の弱さばかりが目立つなぁ。

仙台兵は‘ドンゴリ’と当時呼ばれていたらしい。

大砲が「ドン」と炸裂すれば五里逃げるという意味。

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ところで、この新田峠は先日ひとり自転車で走破した場所だ。

昔の街道はこんなだったのだろうと勝手に想像してしまうほど良く保存されて

いると思う。

~この本から抜粋~

新田峠は、磐城平城を去ること南南西に四里、平潟の北北東三里の地点にある

陸前浜街道随一の要衝である。

左右から杉、松、欅、竹藪などにおおわれた山肌が迫り、九十九折の急坂の続く

地形であった。

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あらためて写真を見ると、まさに記述どうりの風景だ。

弾丸や砲弾が飛び交い白兵戦があったのかと思うと感慨深い。

同盟軍側がつくった砲台跡があるというのだが場所わからず。

この後、戦線は次第に悪化していき最後は五稜郭まで続く。

結果的に命を落とさなかったが林 忠崇のその後は過酷な人生だった。

元大名でありながら生きるためにさまざまな職業(奉公人、番頭、下級官吏等)を経験する。

それと対照的な人見 勝太郎の後半生。

身分からいえばまったくの逆転人生。なんと皮肉なことだろう。

戦史のみを扱ったというより人生の皮肉・不可思議をよく感じさせてくれる小説だった。

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明日は、ピッカリの晴れマーク。

クロモリMTBペガサス号で常磐湯本町の炭鉱廃線跡をたどってみようと思う。

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コメント

そうやってみると自転車で走る?押す?のも楽しみが倍増ですね。読んでみたいですね。
仙台藩って伊達政宗の頃とは300年も経つと変わってしまうのですね(^_^;

さすがは歴史に執着されるピナ男さん、素晴らしい内容の記事に引き込まれてしまいました。
新田峠を自転車で旅し、そこで行われていた過去に心をめぐらせ、、、何たるいい時間なのでしょうか。脆弱な時間ですね〜。

さすがは歴史に執着されるピナ男さん、素晴らしい内容の記事に引き込まれてしまいました。
新田峠を自転車で旅し、そこで行われていた過去に心をめぐらせ、、、何たるいい時間なのでしょうか。脆弱な時間ですね〜。

どこへ行ってもこうして過去にタイムスリップしながら人一倍楽しんでしまう“ピナ男さん”。ペガサス号をお供の歴史散歩は“ピナ男さん”のライフワークになりそうですね。

中原さん
良ければこの本貸しますよ。
戦国時代とは違いますよね。
幕末は兵器の近代化がキーポイントでした。
各藩財政が厳しかったようですが、その中でも優秀な兵器を
そろえた藩が勝利を得たんではないでしょうか。

じっくりと、土地に根ざした史跡を掘り起こすには、心ふるえる感動があってなお効果的です。
林の生き様はまさに「事実は小説よりも奇なり」。大名が奉公人。私も大名の維新後は華族へ自動スライド(もちろん官軍側)だと思っていましたが。
それにしても、この道いいですね。押し歩きとマウンテンで乗ってみたい道ですね。

mattoshiさん
新田峠ですが、磐梯山や安達太良山に自転車かついで登ってしまう
mattoshiさんに較べれば子供が庭先で遊んでいるようなものです。
ただで歴史妄想できるのでこんなポタリングもたまにはいいかと。

kojiさん
まったく無料のタイムスリップ、とことん楽しんでます。
お金をかけずに楽しんでしまう。
自転車ポタリングの醍醐味と思います。

ききょうやさん
29erなら楽しめますよ。
林公のことは地元木更津では有名なようですが。
ほんと波乱万丈なお殿様でしたね。
黙ってればおのずと華族になって生活は保障されたんでしょうが。
華族に認定されるのも条件があってある程度財産がないと駄目なんだそうです。
陣屋を燃やしすべてなげうった彼には負けて残るものは何もなかったんですね。
ただ周囲の努力もあり明治の後年には一族は男爵に叙せられたようです。
子爵でなく男爵っていうのも明治政府の怨念を感じますが。

ピナ男様、読破と走破お疲れ様でした。幕末の知られざるというか、知る人ぞ知る3人の漢の物語、初めて読んだ時はいわきにも、こんな男達が来て戦ったのだと言う感動を覚えました。
新田峠は渡辺町の方がお手入れなさってるので綺麗な状態になっていますね。砲台跡については渡辺町「まほろばの里」の遠藤様が詳しいです。
遊撃隊のルートを見ると箱根湯本温泉からいわき湯本温泉へ来ている所が少しツボに嵌っています。
人見さんですが、函館の町に人見町と言う彼の名を付けた場所が残っています。伊庭八郎さんの最後を看取ったのが、磐城平藩脱藩の新撰組隊士の田村銀之介だったという所にもなにかいわきとの縁を感じます。蛇足ですが、伊庭八郎が重傷を負った場所は戦後、咸臨丸が座礁沈没した場所近くで、乗員は北海道移住した仙台白石の片倉小十郎家臣団でした。

遊撃隊の隊長達、伊庭八郎・人見勝太郎・林忠崇さん達のお墓巡りもいずれしたいと思っています。
スポッツ

スポッツ様
コメントありがとうございます。
読むペースが遅いのですが新聞の小説欄を読む感じで少しずつ読みました。
なるほど箱根と常磐、湯本つながりですね。
林公が激戦の疲れを癒した新滝旅館の場所、浜街道のルート、湯長谷陣屋等
知識として得るものは多かったです。
ところで、フラオンパク平たてもの探訪は家内と参加することになりました。
今からたいへん楽しみにしております。

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